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概要overview
社名 | 有限会社新谷刺繍 |
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所在地 | 〒534-0015大阪府大阪市都島区善源寺町2-8-21-101 |
代表 | 新谷 憲司 |
設立 | 大正13年 |
電話番号 | 06-6921-6471 |
FAX | 06-6921-4660 |
事業内容 | ミシン刺繍加工業 |
適格請求書発行事業者登録番号 | T2120002004720 |
沿革history
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1921(大正10)
手縫ネームを参考にミシンネームに挑戦
シンガーミシン「15種」足踏家庭用ミシン使用先代 新谷軍平(1902-1978)の妻「りょう」が祖父の洋服屋時代の手縫ネームをミシンで出来るように練習を始める
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1924(大正13)
国内初 足踏ミシンによる手振ミシンネーム出現
◎手縫ネーム
当時 西区九条の千波ネーム店(後にミシンに転向)文字の形に渋紙を切り抜き糊で貼付、その上を撚糸で縫い上げる(盛上がりキレイ)
◎手振ミシンネーム
生地(布)を手で直接前後左右させ乍ら文字を縫い上げていく方法(技術差大きい)手縫ネームよりは見劣りする現在のコンピューターミシンと原理は同じで針は上下動のみ
生地(布)を動かす方法が、機械(電動)か手動の違いマルシンネーム店創設
6月 円タク登場
8月 甲子園球場完成大阪市此花区西九条に看板を出す。大阪市内均一タクシー料金(1円)
シンガーミシン「17種」
電動千鳥ミシン
電動ミシンネーム専用機
第一号機械科出身の先代とその義兄(故 井上昌二氏 現 井上金属工業(株)創設)の協力を得て、中古「17種」ジグザグ(千鳥)ミシンを20円で買い、1年がかりで針巾が変えられるミシンネーム専用機第一号を完成 (能率をあげていく)日商 8~10円
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1926(大正15)
外交に出る(注文取り)
中古自転車を買い、市内を朝定時集荷 翌朝、集荷時に引渡し、後に当日配達出来るようになる時間厳守で信用を得る
電話開設
新設 大阪 1020円
電動全方向 ミシンネーム装置 考案
針棒を中心にミシン全体が90°回転さす装置を造り、タテ・ヨコ・ナナメ自在に糸のかかる理想のミシンネーム機
両手、両足使用の為、技術取得に苦労した見習募集第1号
故 合田峯松氏(現ゴーダEMB(株)創設)入社
見習募集第2号
故 西澤信一氏(福知山)
林ネームさんがシンガーミシンへ問い合わせ
林ネームさん(故 林清一氏 現ハヤシエンブ(株)創設)が弊社が入れた見返しネームをシンガー社へ持込、ミシンネームをしている、こんなミシンはないのか?」と問い合わせる。
シンガーミシン工業部より弊社へ問い合わせ
試作中として拒否する
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1927(昭和2)
価格競争 当時の5軒以外高田ネームや近澤ネームを知る
林ネーム(当時 福島)景山ネーム、宇田ネーム(谷町)、藤井ネーム(日本橋)、新谷の5軒で得意先の取り合い、特に林 対 新谷は0円迄エスカレートした
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1928(昭和3)
横振107W102輸入 シンガー刺繍ミシン黒色
初輸入 一番先に林ネームさんが購入
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1929(昭和4)
輸入第2号(新谷ネームへ)
ライバルの購入を知り続いて450円で購入した音は静かで1000回転以上、振巾:10mm以上申し分なく画期的ミシン 今日迄ほとんど改良なし(現在は製造中止)
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1933(昭和8)
貸家新築の余裕 (現在の弊社敷地となる)
86坪に2階建4軒1棟を新築貸家とする
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1935(昭和10)
会社等のマーク刺繍受注へ丸コンパス独自製作
マーク加工に必要な製図も拡大・縮小も得意の先代はシンガーミシン専用の丸コンパスは芯押えが不十分故、真円の2重・3重も正確に出来る丸コンパスを独自製作圧倒的な受注を得た
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1937(昭和12)
二代目、社長誕生
5月 新谷 將平(現 有限会社新谷刺繍 会長)此花区で生まれる
応召
12月 先代 応召 自動車隊へ 社員 故・西澤信一氏 別部隊へ
故 合田峯松氏
マルシンネームの後を引継ぎ、港区で独立開業
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1940(昭和15)
七・七 禁令
ぜいたく品製造販売制限規則 施行される我々の仕事も駄目となったが企業のマーク、バッジは金属代用としてミシンネーム・マークが適切との我々の運動の結果、政府に例外として認められ仕事は続けられた
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1943(昭和18)
疎開始まる
先代の義兄(豊中市)宅へ
横振107W102ミシン6台一式と共に現会長 新谷 將平(小1)と従兄 金川賢次郎(小2)(故・金川刺繍(株)会長(神戸市))と2人お世話になる -
1945(昭和20)
7月 戦火で焼失
此花区 マルシンネーム店 都島区 貸家86坪 (現 新谷刺繍 敷地) 共に全焼
8月 終戦
9月 火災保険いくら掛けていても一律最高5000円のみの支払い
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1946(昭和21)
預金封鎖
銀行預金は一銭も引き出せなかった後に封鎖証紙の貼った紙幣のみ通用した
進駐軍 関係の仕事
正月に故 合田峯松氏より連絡有り進駐軍のマークの仕事があるので至急準備をとの一報をもらう
バラック建築で仕事準備
保険金の5000円を元手にバラックを建て、ミシン作業の準備
6月 G.H.Qの軍命令
上本町 山本良 微章店を窓口に、故 高津俊三氏 故 合田峯松氏、故 橋本友蔵氏 等々のメンバーと共に注文をこなし再建ができ、今日がある
電気事情悪化
一般家庭はよく停電があった為、仕事中、停電になったら昼でもミシンの前で寝て、夜、電気が来たら仕事をする状態の連続だった、足踏式で107ミシンを回したこともあった
自家発電
バッテリー設備をし、自家発電で仕事をする単独台は価格が高く6台連続して1個のモーターで回す
ミシン部品作り
107W102横振ミシン 部品不足時代仕事はあっても横振ミシンが少なく、あっても部品のない物や磨耗でガタが多かったので部品を自作するしかなかった
先代は寝食を忘れ夢中で作業
・中ベルト(タイミングベルト):麻糸を撚ることからはじめ、ベルト製作装置も自作し、幅や長さを調整しながら作った
・ベベルギヤー 1セット(シャフト用と釜用のギヤー)
振巾調節用シャフト針棒とマネキの連続用クランクの修理等、(ミシン屋でも当時設備も技術者もなく出来なかった)先代の義兄の工場の施盤やボール盤等その他設備を借りて自作し間に合わせた部品自作→同業者へ
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1950(昭和25)
貿易物の仕事
ハンカチや枕カバー等、繊維加工品の輸出の仕事
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1956(昭和31)
見習生 大募集
少しでも刺繍が入っていれば有利に出荷出来た為、数量が非常に多かった。見習生を多く確保し、練習台用に大いに利用出来た
屋号 新谷刺繍加工所とする二代目、新谷 將平 入社
ジャガード4頭建×3台
パンチング機×1台設置入社後すぐ、テキシマ(ドイツ製)ジャガード設備をスポンサーの協力で設置担当を命じられる 故 合田峯松氏や日本レース(株)パンチング技師に指導依頼勉強する
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1957(昭和32)
(ジャガード4頭)と(横振107)1台分が同等くらいの能率だった
前年導入したジャガード機は、タテ4ミリ×ヨコ4ミリ斜6ミリの範囲しか振巾がなく250回転作業も限定された
パンチング機
6倍のトレース上に1針ずつ針目を製図。X,Y軸交点ではじめて1針のパンチングで1日3000~5000針程度しか出来なかった。
刺繍データ管理
紙テープ(56ミリ巾)かさばり保管に苦労
ジャガードに見切り横振り及び、特殊ミシンでいく決心
能率面で資金的にも企業化には弊社では無理と判断。撤退した
ジャガードなんかに負けるか!の意気込みで他店ですぐ真似の出来ない弊社独自の商品作りを目指した。
色々なアタッチメントを自作 刺繍に応用 -
1958(昭和33)
横振りミシン用靴下専用だ円枠制作
プラスチック工場と相談 3~4cm大のワンポイント柄は出ていたが、だ円枠使用で(3×8cm)程度の長い柄刺繍の要望に応え、靴下工場の多い奈良方面からも大口注文
ハンドル刺繍にも進出
単環は元より飛び環(2色交互)巻ハンドル、コード縫い2本針巻ハンドル等
カットワーク(コード刺繍)
アタッチメントも考案(細い芯でもコーナーで上糸がはずれないようにした)
横振107W102の二本針化
針棒の先を2本針用に作り直した
横振ミシンワッペン
ジャガード(現コンピューター)の正確さには、歯がたたないが、見劣りせぬ横振ミシンワッペンを制作
外枠の正確さにゲージ使用
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1963(昭和38)
次男、新谷秀清入社
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1973(昭和48)
有限会社新谷刺繍に改組 法人とする
二代目、新谷 將平(代表取締役)
次男、新谷 秀清(取締役)
兄弟でそれぞれ得意分野を担当 共同経営 -
1985(昭和60)
コンピューターミシン刺繍再参入
紙テープの管理(56~25ミリ巾)に苦労したがフロッピー化出来たので導入
それまでの間、大口注文は外注形式で他店に協力してもらった現在 1頭8台
小ロット多品種対応ネーム・マーク・ワッペンを主とする
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1988(昭和63)
賃貸マンション6階建 新築
事業縮小の為 86坪の旧作業所兼自宅を全部建替
1階18坪を(有)新谷刺繍として現在に至る
アクセスaccess
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